天声淫語
盛夏の候、蝉の声が響き渡る街。暑さに負けず、日々の営みを続ける人々の姿に、季節の移ろいを感じる。中熟年ゲイポルノの世界もまた、熱気に包まれている▼昨今、撮影現場では一人の男優が多くの耳目を集めているようだ。彼の芸名は島田部長。撮影中にガムを噛み、関西弁で尊大に指示を飛ばすその姿は、まさに「指示厨」の異名にふさわしい▼島田の態度は、他の出演者にとって大きなストレス源になっているのではあるまいか。彼の指示は的確であることも多いが、その横柄な態度が問題だ。撮影現場はチームワークが求められる場所であり、一人の恣意的な行動が全体の士気を下げてしまう恐れがある▼ある日のこと、撮影中にタチ役を放棄して、他の男優の男根にむしゃぶりつく島田の姿を見た普段は真面目で優しい新人男優が、思わず「もう嫌・・・」とつぶやいた。その言葉は、現場の多くの人々の心の声を代弁していた▼政治哲学者のハンナ・アーレントは「権力とは、他者との関係においてのみ存在する」と述べた。島田のように権力を振りかざす態度は、他者との関係を損なうだけでなく、自身の信頼も失うことになる。タチ男優におけるリーダーシップとは、不遜な態度で指示を飛ばすことではなく、ウケ男優を尊重し、共に感じていく姿勢が求められているのだ▼暦の上では夏も終わりに近付いてきた。島田にもまた、引き際を見極める頃合いが来ているのかもしれない。騒がしい蝉の声が消え、涼やかな秋風が感じられる頃には、撮影現場にも新風が吹き込むことを期待したい。
『構造とおい力抜け』 緩信の呪縛から逃れ出るための
今まさに、ポストモダン批評の視座から、『ガバ穴ダディー』におけるタチ男優としての島田課長を肯定的に捉えるという改造への躍動が行われんとしている。フランス現代思想の巨匠たちの言説を借りつつ、その存在の意義を再考してみよう。
まず、ジャック・デリダの「脱構築」の概念を援用しながら、中間管理職としての島田課長を再評価してみよう。デリダは、テクストの中に潜む二項対立を解体し、新たな意味を浮かび上がらせる手法を提唱した。この視点から見れば、横柄な振る舞いをする指示厨は、「勃たざるタチ役」という矛盾を内包した男優として、実社会における権力構造やヒエラルキーを可視化する存在として機能していると言える。島田のウエメセな態度は、実はその背後にある不安や自己防衛の表れであり、『ガバ穴ダディー』というテクストの中での「他者」としての役割を果たしている。
また、ミシェル・フーコーの「権力/知」の概念を考慮することで、島田課長の存在意義をさらに深めることができる。フーコーは、権力が知識を通じて行使されることを指摘し、権力と知識が相互に構成し合う関係を明らかにした。『ガバ穴ダディー』における島田は、その独特の言語や文化的背景を通じて、ビデオ内での権力関係を再生産し、強化する役割を担っている。彼の指示や命令は、単なる業務の遂行を超えて、中熟年ゲイカルチャーにおける「知」の再生産を促進しているのである。
さらに、『ガバ穴ダディー』における多層的な役割を浮かび上がらせるために、ドゥルーズ・ガタリが提唱した「リゾーム」の概念を島田自身に適用してみよう。リゾームは、中心や階層を持たないネットワーク構造を指し、従来の権力構造を超越する新たな関係性を示唆する。しばしば緩信から攻撃対象とされている島田の振る舞いの数々は、ビデオ内の固定化されたヒエラルキーを揺るがす存在として、リゾーム的な役割を果たしていると言えよう。彼がビデオ中盤で見せた、指示厨的態度と相矛盾するかのようなコブラ・チンポへの執着的態度は、実はビデオ内の権力構造を再編成し、新たな関係性を創出する契機となっているのだ。
ジャン・ボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」の視点から、島田のキャラクターを再考することも大変有益であろう。ボードリヤールは、現代社会において現実とシミュレーションの境界が曖昧になることを指摘し、シミュラークルが現実を凌駕する状況を論じた。島田は、実社会、とりわけ企業内における「現実」をシミュレーションする存在として機能している。彼の横柄な態度や指示厨的言動は、実は企業内での権力関係やヒエラルキーをシミュレートし、『ガバ穴ダディー』内で、当該する「現実」を再生産する役割を果たしているのである。
最後に、島田課長なるキャラクターの存在意義を総括してみよう。ポストモダン社会において、価値観の多様性と相対性が殊更に強調されていることは言うに及ばないだろう。
言ってしまえば、『ガバ穴ダディー』とは固定化されたゲイポルノを超越する新たな視座を提唱するために、サンダービデオが打ち立てた試みの一形態なのだ。島田課長は、その独特なキャラクターを通じて、『ガバ穴ダディー』に内在化された価値観を相対化する装置として機能している。先述の通り、彼の指示厨的な振る舞いや、「本質的にはウケであること」を鑑賞者に悟らせるコブラへの執着は、実はビデオ内での固定化された役柄や権威を揺るがし、新たな価値観を創出する契機となっていることは、もはや明白であろう。
中熟年ゲイ・ポルノビデオ業界に金字塔を打ち立てた『ガバ穴ダディー』出演者としての島田課長を肯定的に捉える試みが、現代思想が複雑に織り成すタペストリーの一部として位置づけられることは疑いがないのだ。おっきいチンポ銀河大帝。
『ガバ穴ダディー』をフロイト思想で読み解く
このブログを御覧の皆さんもよくご存知のとおり、『ガバ穴ダディー』は単なるゲイポルノ作品ではありません。今日まで無数のガバ穴研究者(欧米圏では”ダデイスト“と呼称されています)の手によって、神話学、文化人類学、社会学、音声学など幅広い学問的見地から、この難解なビデオにまつわる多様な解釈が試みられてきました。まさに『ガバ穴ダディー』は汲めども尽きせぬ知の泉と言っても過言では無いのです。不肖ながら、今回御覧いただくブログでは、謎に満ちた本作品を前に、二十世紀最大の心理学者・精神科医として名高いS.フロイトの思想を武器として読み解いてみようじゃないか、というきわめて野心的なチャレンジをします。 短い間ではありますが、どうかお付き合いのほどよろしくお願い致します。
島田課長の「言い間違え」にみる防衛機制
防衛機制とは、私たちが不安やストレスから自分自身を守るために無意識的に使う心理的なメカニズムのことです。
ガバ穴ダディーの出演者たちの動きには、明らかな心理的防衛機制が見て取れるのです。
タチをこなす男優のひとり、島田課長は指示厨の異名を取るほど口煩い役柄で、その振る舞いは視聴者にやや横柄な印象を与えるほどです。気持ちいいのはあくまで”お尻の穴”であると常識的な姿勢を崩さない緩次郎に対して、島田は「違うだろ?」と喝破します。男性同士の交わりにおいて、当然ながら女性器は存在し得ません。その代替品として、両方の性別に等しく与えられた排泄器官である肛門を女性器に見立てて性交を行うのですから、タチ役の一翼を担う島田としては、緩次郎の感じる穴が肛門、つまり非生殖器性を帯びている状態では困る訳です。それではゲイポルノとしてのガバ穴ダディーが成立しなくなってしまう。そんな島田の努力の甲斐あって、絡みは好調に進行して行きますが、ここで島田は痛恨のミスを犯してしまうのです。あれほど緩次郎の肛門発言を論難し、女性器呼びを強いた島田自身が、あろうことか「ケツはおまんこは?気持ちいか?」と言い間違えをしてしまいます。ここでフロイト思想が本領を発揮します。
フロイト思想においては、言い間違いや書き間違い、物忘れ、紛失のような錯誤行為を、無意識の願望や葛藤が表面化したものだと捉えます。なるほど、男優歴が長く、男性同士の交わりやビデオの演出に一家言もつ島田が、単なる偶然や不注意からミスを犯したとは考え難いですね。社会通念に鑑みれば、どこまでいっても肛門は肛門であって、女性器とは成り得ないという、ある種の諦念が無意識下に抑圧された結果として、島田の言い間違えを引き起こしたと見るほうが自然でしょう。肛門の性器化を推進する立場の島田自身が、このような葛藤を抱え、苦しんでいたのです。
固着と退行を繰り返す「真面目でやさしい教師」
本映像作品の主演男優賞を務めておられる緩次郎氏のプロフィールを参照してみましょう。
『普段は真面目でやさしい教師。しかし…いったんケツマンコを弄られると「おまんこきもちいい…おまんこにちょうだい」と卑猥な言葉で太マラをおねだりする淫乱ダディーに大変身!』
緩の二重生活ぶりは、東電OL殺人事件の被害者女性に匹敵する程です。東京電力に勤めるエリート女性社員が、退勤後は街娼に身を窶し、果てはアパートの一室で絞殺されてしまったという二重生活のギャップに、当時多くのスキャンダラスな衆目が集まりました。私たちがガバ穴ダディーに惹かれる理由、それはこのギャップにあります。普段は真面目でやさしい教師として品行方正な毎日を送っているであろう緩が、ゲイポルノの主演男優として、苦しんでいるチーズ星人のような切ない喘ぎ声や珍妙で独特すぎる淫語を連発するギャップの背後には、一体何が隠されているのでしょうか。フロイト思想を手掛かりに紐解いてみましょう。
やや話題が迂遠します。フロイトの提唱した心理性的発達理論においては、性の発達が段階的に説明されています。これらの各段階においては、ある特定の身体部位が性的快感の主要な源となるのです。
緩のプロフィールには、性感帯が全身に分布しているとあります。フロイト思想においては、性感帯が全身に拡散している状態は、幼児性欲の残滓であると見做されます。さらに考察を深めていきましょう。尻穴が性感帯というのは、どのような性的立場を意味するのでしょうか。疑いなく、緩は性器より肛門から性的快感を得ています。換言すれば、緩は肛門性欲に固着しているのです。フロイト思想における固着とは、子供がある発達段階で特定の問題に対処できなかった場合、 その段階に過剰にとどまることを指します。 例えば、肛門期に固着すると、性器より肛門から性的快感を得るばかりではなく、大人になってから過度にきちんとしたり、秩序を重んじたりする傾向が強くなる(「肛門性格」と呼ばれます)と言われています。なるほど、緩の肛門性格ぶりは、普段は真面目でやさしい教師という前評判や、綺麗で真っ白な歯並びからも頷けるものがありますね。また、緩はしばしば、ストレスや不安などの状況下で、以前の発達段階の行動パターンに戻ってしまう退行を惹起しているのでしょう。緩にとっての退行のトリガーは、一般的な症例であるストレスや不安などではなく肛門をいじられること、大きな男性器を見せつけられることなのです。教師という立場にありながら、事あるごとに固着と退行を反復し淫乱ダディーに大変身してしまう自分に嫌気が差し、プレイの最後に「もう嫌...」と切なく呟いたのでしょう。
最後に
神秘のベールに覆われた本作品を前にして、臆することなく鋭い学術的考察を加え続けてきた先達のガバ穴研究者の尽力に改めて深甚なる敬意を表したいと思います。おおピノ…。